前回に続き、澤野 新一朗さんにお願いしています。澤野 新一朗さんへのインタビューは連続3回にわたり掲載され、1回目と2回目の主な内容は以下の通りです。
1回目:南アフリカ共和国の大自然とそのエネルギーを伝えるご自身のライフワークのテーマ等について
(1回目はこちら)
2回目:ご自身のプロジェクトやそこでの思い等について
(2回目はこちら)
この最終回では、南方熊楠氏と共育などについて語ってくださいました。

澤野 新一朗(さわの しんいちろう)
写真家・南アフリカ共和国観光大使
プロフィール・活動:
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—— 今回の「共育」がテーマという時に、南方熊楠(みなかた くまぐす)のことをお話されていましたが、私も今日ちょうど国立科学博物館の「企画展 南方熊楠——100年早かった智の人——」を見てきました!
[企画展は2017年12月19日〜2018年3月4日に開催されていた(国立科学博物館)]
国立科学博物館ウェブサイト:https://www.kahaku.go.jp/event/2017/12kumagusu/
公益財団法人南方熊楠記念館ウェブサイト:http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp
澤野:「共育」と言うと、南方熊楠を思います。今なぜ熊楠が「100年早かった智の人」と言われるかと言うと、熊楠の研究調査資料はビックデータだと感じたのです。熊楠という人間に関していろいろと本は出ていますが、彼が研究したものはあまりにも大きく多岐に亘っていて、それに対しての研究はこの10年位の間に始まったばかりだそうです。それをいろいろな角度から引っ張り出すといろいろと出てくるというまさにビッグデータなんです。データベースなのですね。
—— 展示の最後のところに、熊楠の残したものは私たちが例えばグーグルで検索するデータの貯蔵庫のようなものだとありましたね。
澤野:そう、クマグル(Kumagle)と言うのですね(笑)。正面のところには、ロンドンで出会った高野山真言宗管長で、当時最高の学僧、土宜法竜(ときほうりゅう)に送った書簡の中にある、のちに「熊楠曼荼羅」と呼ばれるようになったものが展示してありました。熊楠は筆で書いたのですが、緑色のホログラムで作られていました。「熊楠曼荼羅」は実際は立体的で3Dを超えているというか、クラインの壷のようだと思います。メビウスの帯は表側を辿っていくといつの間にか裏側に行っていますが、それを三次元にしたようなクラインの壷は外側を辿っていくといつの間にか内側になっているのです。
—— あまりにも進みすぎてその当時の人には理解できなかったでしょうね。共育の観点からすると南方熊楠はどんな人でしょうか?
澤野:ひとつ言えることは、今の企業形態とか学問・アカデミックなものに人々は限界を感じているのだろうと思います。南方熊楠は、師も弟子も持たなかったそうです。独学で自分の興味あるものに従って研究・探求していたわけです。それは、粘菌生物学、変性菌、民俗学など非常に多岐に亘っている。熊楠がやっていたことは、現代ではビッグデータそのものと言えます。いろいろな切り口からそのビッグデータに入り込むと、芋づる式に出てくるのが熊楠なんです。民俗学、森羅万象、宇宙、植物、セクソロジー(性科学)、男色の研究もしていました、粘菌植物と男色の関係とか。彼の研究で知られる粘菌は、その動きが、今のホラクラシーではないですが、その時その時の環境の変化によって形態を変えていきます。粘菌は動物でも植物でもなく、環境がいい湿気がある時はアメーバのように動いて、それで栄養を摂りながら生き延びていくのです。YouTubeで粘菌の動きを見るとすごいです。微速度撮影の映像を見ると全体が脈打って呼吸しているみたいに動いていって、あるところまでくると今度は固まって胞子みたいな形になる。アメーバ的な細胞もあるし、またそれが合体するような生き物なんです。
—— まさにこれからの社会の在りようとも言われるホラクラシーのようですね。彼は見つけた資料を手当たり次第に筆で書き写しましたね。
澤野:南方熊楠は、一種のサバン症候群だったのかもしれません。
—— なぜそんなにデータを収集するのかという問いに対して熊楠は「これで自分は狂人になるのを防いでいる」と言っています。それをしないと癇癪を起こすし、頭がおかしくなってしまうと。
澤野:はい。彼は父親が商売に成功していて経済的に全く不便がなかったそうですが、18歳位で東大の予科に行って、その時の同窓生が夏目漱石や正岡子規。でも一年でやめて渡米してシアトル、フロリダ、それからロンドンに行って大英博物館の図書館に入り浸り、そこで何万ページも書き写したのです。ロンドンで出会ったのが、先ほど話した高野山真言宗管長で、ロンドンに滞在していた孫文とも親しかったといういきさつもあります。それから熊楠は地元和歌山の田辺市に戻り、熊野の森の中に入り込んで粘菌の研究を始めるわけです。自分自身が森になりきってその境地にならないとわからない、と。
—— 面白いですね。
澤野:十代から日記をずっと書き残しているけど、途中で彼は自分が人間でなくなるような気がして気が狂いそうになって、もののけ姫の世界みたいなものです。そうやって収集したコレクションはものすごく正確に記録してあり『Nature』にも発表しています。もともと地元では変わり者で変人だったけど全国的に知られたのは、昭和天皇が皇太子の時、また天皇になられてから田辺市に来られた時に、神島(かしま)という離れ小島で、南方熊楠はキャラメルの箱の中に標本を入れて献上したという有名な話があります。熊楠のすごさはこうして地元でも知られたというわけです。そして、彼が今でいう自然保護の「エコロジー」という言葉を使ったのが今から106年前だったと。
—— エコロジーと言っても、当時あまりに早すぎて理解されなかったでしょうね。

澤野:そうでしょうね。それから、明治末期に神社合祀に大反対したのが南方熊楠で、柳田國男とか有識者が賛同して政府に陳情したそうです。一町村一社を原則とする国の政策は、自然を破壊すると大反対した先駆者だったんですね。
—— 世間から変人と言われていた。
澤野:森にいる時は半分裸みたいな姿で平気です。でも人見知りが激しくて人が来る時は緊張してしまうのでお酒を飲まなくては会えなくて、わざわざ東京から柳田國男などが来た時は、飲み過ぎで会えなかったといいます。若い時は大ボラ吹きだったようです。
—— 本人は嘘をついているつもりはなくても周りからは「またか」と。常識から外れているように見える熊楠のような人の存在は、一方で古いものを変えてゆく力、何か新しい時代の扉を開ける鍵を持っているような気がします。
澤野:イギリスに居ながらもいわゆる西洋の科学者にはなりきれなかった。アルファベットで表現する西洋の科学者のアカデミックな考え方や構成には限界があると思います。熊楠のやっていたものはもっと次元を超えたものが入っていたと思うのです。彼が書いたメモ書きは一見すると支離滅裂です。でも解析して取り出して展示の中で、ここの部分とあの部分が紐付けられていると説明されていました。例えば虎についてのことだったら、世界中の虎についてのエピソードがバラバラに書いてあるんです。そういうぐちゃぐちゃに見えるビックデータのデータベースの中から文学とか生態学、動物学を取り出してくるわけですよ。
—— 平面的に見ると脈絡がないように見えるものが、実は多次元的な視点から見ると複雑につながり合っている。
澤野:そういうところで、時空を超えたもの、時間軸を超えたものが、熊楠曼荼羅についてのひとつの解釈だと思います。帰国してからも先の僧侶とずっと文通があって、それが僧侶のお寺から十数年前に発見されたそうです。
—— 彼は平面に書いたけど、(企画展では)これ(熊楠曼荼羅)を立体的に見るようにと書いてありましたね。
澤野:先程話したようにホログラムで作ってあるものが正面に展示してありました。熊楠に関する本は、地元の人が書くと熊楠への思い入れがあるから結構歪んでいたりプライベートなことを載せていないとかありますが、時代時代で著名な人も書いています。今は熊楠の光の部分も闇の部分も赤裸々に書いてありますね。39歳位でお寺の娘さんと結婚し、娘と息子がいる。娘は熊楠の資料をずっと保管してサポートしていますが、息子は精神障害があり十代のころから施設に預けられたんですね。あまり会ってなくて、自分の息子がいつ死んだかもわからないと。また人間の生態なども専門家といろいろと書簡でやりとりしていたようです。エピソードには大ボラ吹いているのがいくつもあるわけです。「俺は日本のゲスナー(スイスの博物学者・書誌学者)になる」という野心を持って海外に出ていったというのも書かれています。
—— 当時、熊楠は幸せではなかっただろうと思います。もし今熊楠がいたら「時代がようやく人類の遺産としてあなたの価値を見出しましたよ」と伝えたいですね。
澤野:いろいろと葛藤はあったと思います。自分としては未完成だったと、やってもやってもやりきれないという研究内容ですよね。弟が父の事業を引き継ぎ成功していて仕送りをしていましたが、その弟とうまくいかなくなりピタっと送金が止まってしまいました。否応無しに帰国するけど、熊楠は働いたことがないわけだし貧乏暮らしだったんです。奥さんも大変だったと思います。
—— 失望の中で亡くなっていったのかなと想像しながら、人間の一生の価値ってどこにあるのだろうと考えてしまいました。
澤野:確かにやり遂げきれなかった不完全燃焼のところはあったとしても自分のやりたいことはやり通してきたという、それは幸せだと僕は思います。レオナルド・ダ・ヴィンチみたいにすごい小さい文字で書きまくって、ノートに緻密に書き残していた。書くことが苦手な僕には羨ましい。そして日記では、奥さんに知られたくないことは英語とかドイツ語で書いてあり、『Nature』で発表するのも英語。『Nature』は昔はアマチュアの人たちの交流の場だった。手紙でやりとりしてお互いに質疑応答していたのが昔のやり方だったようです。ロンドンから帰ってからも海外の粘菌の専門家が4000種類位サンプルを送ってきたり、海外の人との交流がずっと続けてあったというのがすごいですね。
—— データベースという概念すらなかった100年以上前に、正体不明の大きな力に駆り立てられるようにして日本でアメリカでそしてイギリスで、生涯貪欲に記録し続けた博物学者の南方熊楠。その熊楠に対する澤野さんの熱い思いが伝わってきました。
熊楠はすでに亡くなってはいますが、共育者として澤野さんの心の中に生きているのですね。これからも心の中の熊楠と澤野さんは共に進化し続けることでしょう。これからのご活躍が楽しみです。
(インタビュアー・長岡 純)

【イベント情報】
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