第1回に続き今回も、矢作直樹さんにお願いしています。
連続3回の掲載の1回目は、ご自身の体験も交えながら「自分を知ること」等について語ってくださいました。(1回目はこちら)
2回目となる今回は目覚めることや感謝等についてです。

矢作 直樹(やはぎ なおき)
東京大学名誉教授・医学博士
プロフィール・活動:
『矢作直樹公式ウェブサイト』 http://yahaginaoki.jp
—— 矢作先生ご自身の今後のビジョンというか、今の活動からさらにこういったことをやっていこうということは何かありますか?
矢作:そうですね。ゴールというのはたぶん設定が必要なくて、方向性としてその方向にやっていって、あとはなるにまかせるで、たぶんなるようになっていくんじゃないかなと感じています。
—— その方向性をどういう風に考えていますか?
矢作:やっぱり目覚める人がある一定数どんどん増えてくれば、ある時から変化の速度が速くなると思っています。
—— 先生が見てらっしゃって目覚められたなーという変化を感じられるような具体例はあったりしますか?
矢作:いろいろありますよね。元々からそういう魂の人もいれば、努力して機会とともに変わっていく人もいますね。
—— それは時代的に昔は理解できなかったであろうことが変わってきたということですか?
矢作:さすがに今どき例えばこれだけ多次元世界というのが量子論的にある程度示唆される中で、まさかそれを否定する、もちろん理解できないためにわからないという人は多々いるとは思うのですけれども、いわゆる悪魔の証明じゃないですけど、無いことの証明はできませんので、あんまりそういうところで突っ張ってもしょうがないと、人は気づくのではないでしょうか。
—— そのあたりが先生が観てきた中ではどんどん変わってきたと。
矢作:そうですね、例えば東日本大震災の意味なんかがわからないと、亡くなった人に申し訳ないですよね。
—— 先生が大切にしている言葉はありますか?
矢作:「感謝」ですね。それから「足るを知る」「明鏡止水」とか「虚心坦懐」。あと「寛容」とか「調和」とか。みんな日本人のこころですね。もちろん「慈悲」も。
—— なるほど。
矢作:「感謝」と言った場合にいろいろ取り方はあるでしょうけど、「自分への感謝もとても大事ですよ」とやっぱり言いたいですね。自分ということは結局すべてということになるのでね。医療をやっていると、不調ってそこが足りないから出てくるんですが、意外とその単純なことがわかってない人が多いということにいろいろな局面で知らされるんですよ。だから家庭とか学校での基本として、それこそそういうことには共育が必要なのかもしれませんね。
—— 非常に面白いですね。そう思われた過程って「この状況がよろしくないから変えてやろう」みたいなある種の怒りの感情があるのかなと・・・
矢作:いえ、怒りはないですね。むしろそういう感覚とちょっと違ってですね、よりよくというのが正直な感覚です。今を否定してそこから立つわけでは決してなくて、結局今だっておそらくずっと魂が進化したところからみれば野蛮人の世界ですからね。たぶんおそらくどなたもそうだと思うのですけど、別に何か相対的に周りがどうだからこうだからという話じゃないということになるんじゃないかなと思います。
—— 面白いですね。先生の場合は、元からそうだったものをそのままやって周りの人にも気づいてもらうというような、まさに無言で体現してらっしゃるタイプ。僕はこのインタビューは「共育」という観点で読まれる方にほんといい気づきになるのではないかと思いました。というのも、みなさんが何かになろうとして「私にはそういう劇的な体験はなかったからなれないと思う」というような話は結構よくあるので。
矢作:確かに聞きますね。ただやっぱりそれは、おそらく自分に向き合ってないからだと思いますよ。難しく考えると難しいかも知れないけど、単純に考えればね、例えば何か本当にわくわくするとか理屈抜きの感覚で、それを感情だから直感とは違うと言う人もいるようですけれども、そんな難しいものじゃないですよ。ひとつ例えをあげると、兄弟でもおそらく肉体的なDNAは近いはずなのに性格は全く違う、あるいは学校のようなもっと多くの人がいるところを見れば多様性ってもっと極端でしょ。そういうのを見た時にたぶん気づくはずですよね。「何でこれだけ違うんだ」って。ただそれは別に何か劣っているとか優れているとかという意味でなくて、みんな役割分担なわけです。極端に言えば、生まれて来ずに死産する子だって大きなミッションを持っているわけですね。だからその役割とは何だろうって考えていけば、気づくはずですけど、やっぱりそこで思考が止まる場合が多いようですね。それがある意味気の毒な感じがします。嘆き悲しむのなんか見ちゃうとね。
—— 今の現状なのかな、と思うところはありますね。ところで先生はすごく感情的になったりとか自分が自分にびっくりするような経験ってあったりするのですか?
矢作:いろいろあります。例えば自分と行動規範が極端に違う人に対して「しょうがないな」と理性で思ている部分と感情でやっぱり「このバカ」という部分ってありますよ。今はもう随分減りましたけど、例えばですね、自分の価値観を強く押し出す人たち、メディアもそうだしいろんな団体とか宗教者もそうでしょうけど、そういう者に対して二面的な感覚ってありますね。二面的っていうのは、理性ではしょうがない人たちだと思うけれども、感覚的には、怒りというのとはちょっと違うな、、、何で気づかないんだろうというような意味での残念さというのですかね。
—— 残念さですか。「ちょっと悲しいなー」みたいな、「もったいないなー」というのでしょうかね。
矢作:せっかくなのにね・・・。次回に持ち越しちゃうんでね。

—— 面白いです。医療者としての先生自体も客観的に見ていらっしゃったのかなと思うのですが、そのあたりはいかがですか?
矢作:そうですね。一言で言うと、やっぱりいい医者ではなかった。
—— いわゆる世間的な意味で?
矢作:じゃなくて、自分自身が医療を本当の意味で天職だと思えることはなかったのですよ。義務感だけでやっていた。良心を裏切るとまでは言わないけれども、やっぱり本当の人生を生きていなかったですよ。
—— それを経て今の先生の活動があると。
矢作:医療から足を洗って本当にほっとしました。逆を言えば、おととしまでの36年間は、無駄とは言いませんけども、ある意味での修行でしたね。何か尊いという意味の修行じゃなくて、自分を欺いていたことへの見返りでしょうね。
—— 先生がそれに気づくための期間。
矢作:そうですね。もちろん振り返る必要はないので、そこには後悔はないですけども、迂遠ではありましたよね。
—— なるほど。
矢作:それも全部仕組まれていることなんでしょうけどね。
—— まさに哲学者なのかなと思います。
矢作:ただ哲学者と違うのは、考えているわけではないということですね。
—— 哲学したわけではなくて、元々知ってらしたということですかね。
矢作:知っていたかどうかはちょっとわからないですけど。
—— いわゆる哲学者の場合、探求して価値観との違いというものをある種のカタルシスの中で自分の中に入れていかないといけない。納得の作業の中での苦しみってすごいおありだと思うのです。
矢作:そうですね、職業としてやってるとね。
—— そこで哲学者は孤独だと言うんですけど、先生の中にはそういった孤独感とか寂しさみたいなものも・・・
矢作:そういうのはないです。ともかく聞かれてよくわかることは、何にも考えていないことですね。
—— 何にも考えていないことの効用って、客観的に見て先生的にはどういうふうに・・・
矢作:そうですね、それさえも考えないですね。
—— 言語化っていうのはすらすらできた感じですか、本読んだりとか。
矢作:いや、やっぱり難しいですよね、言語化は難しいですね。
—— でも先生の文章ってとってもわかりやすいです。
矢作:まあ一応努力はしていますんで。(笑)
—— そのいわゆるコントロール感とか押し付け感のない先生の文章って、やっぱりエネルギー的にすごく感じますね。
矢作:そういうのってたぶん元々の役割の違いだと思います。(笑)
(インタビュアー・有本匡男)

H29年12月北岳から続く池山吊尾根(矢作直樹先生撮影)